出てけ、失せろ。最期の言葉なんてものは、生きてるうちに言いたいことを全部言わなかったバカ者どもが口にするものだ。
常に道は在る。 「仕方ない」とか「難しい」とかいう言葉を言えば言うほど解決は遠ざかる。
国籍や年齢や性別による差別は、馬鹿げている。愛国心という名の下に外の国民に敵愾心を抱く事も実に悲しき事だ。世界中の全ての人々の幸せを願う。
たまに、明治時代のような激動の時代に言及して、あの時代はよかったね、などと言う人がいますが、私はそうは思いません。確かに、明治時代は、指導者のなかには立派な人がたくさんいたし、そういう点では魅力的な時代かもしれません。でも、実際に明治時代に生きていた国民は大変な辛苦を強いられたと思います。栄養状態がひどく、国民の多くは生活が困窮していました。何よりも、明治という時代は戦争の連続だったのです。
おまえはそこでかわいてゆけ
デカなんかに化けるべきじゃなかったな、テリー。でなけりゃ、もっと気持ちよく逮捕できたのによう。
私たちはいつか、今より少しは物事を知っているようになるかもしれない。しかし、自然の真の本質を知ることは永遠にないだろう。
楽しんで無駄にした時間は、無駄じゃない。
苦しいから逃げるのではない。逃げるから苦しくなるのだ。
真実でさえ、時と方法を選ばずに用いられてよいということはない。
休息はよいことであるが、倦怠はその兄弟である。
実物には一向に感心しないくせに、それが絵になると、似ていると言って感心する。絵とはなんとむなしいものだろう。
今ここで自分が描かなければ誰が描くんだろう。
それは上々、一段の吉日にござる。信長公のために討ち死にするは覚悟のうえ、二度と生きて帰ろうとは思わぬ。さてまた光秀の天命が尽きれば、大利を得て、思いのままに国をもらい、この播磨の城に帰ることはない。
人間は生まれながらにして自由である。しかし、いたるところで鎖につながれている。自分こそが主人だと思っている人も、実は奴隷であることに変わりはない。
優雅は美貌と違ってすり切れない。それには生命があり、たえず新しくなる。したがって三十年の結婚生活の後にも、貞淑な妻に優雅ささえあれば、彼女は結婚の最初の日のように夫に気に入られる。
欲しいっていうものが自分のものにならなかったら、現在自分が持っているものを嬉しい、と思うように考え方を変えればいいんです。
疲れた人は、しばし路傍の草に腰を下ろして、道行く人を眺めるがよい。人は決してそう遠くへは行くまい。
完璧であるためには、一秒ごとに変化しなくてはならない。
自己放棄は偽善である。
人付き合いがうまいというのは、人を許せるということだ。
知的な人々の中に幸福を見いだすことは滅多にない。
自分で幸福を感じている人は、それだけで満足し感謝するが、自分が幸福を感じないものは、他人に尊敬されたかったり、他人に報酬を求めたりする傾向になりやすい。
心配するのは一回に一日分だけってきめたのさ!
まあ、いいわ… 大切なのはスタートじゃなくて、フィニッシュだってことくらい昔から知ってるもの…
人間の英知を信用しすぎるのは賢明ではない。強者も弱くなるかもしれないし賢者も間違うかもしれない、と心に留めておくことは健康的である。
僕は彼女が大好きだが愛してなどいない。一方彼女は僕を熱烈に愛しているがそれほど好きではない。
過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。
君の魂の中にある英雄を放棄してはならぬ。
人間には多くの宝、多くの楽しみが与えられている。しかし人生最大の幸福、最も豊かな収穫は、なんといっても善良軽快な心だ。