だめでしょう。とまりませんながぶがぶ湧いているですからな。ゆうべからねむらず血も出つづけなもんですからそこらは青くしんしんとしてどうもまもなく死にそうです。けれどもなんといい風でしょう。
選択とはその他をすべて捨てること。
忘れるのは、忘れたいからである。
幸せになることに躊躇してはいけない。
戦争を経験して、逆境に負けない強靭さが身につきました。また、戦争が終わって戻ってきたもののありがたみをつくづく感じました。食料、自由、健康、家庭、そして何より人の命に、深い感謝の念を抱いたのです。
もし神が存在しないなら、神をつくり出さなくてはならない。
休息はよいことであるが、倦怠はその兄弟である。
神を感じるのは心情であって、理性ではない。信仰とは、そのようなものである。
夢中で生きることを、「生きる目的」にする。
願いが正しければ、時至れば必ず成就する。
予想外の人生になっても、そのとき、幸せだったらいいんじゃないかな。
性格は変わらない。見解は変えることができるが、性格はただ発達させるのみである。
人と人との応接は、要するに鏡のようなものである。驕慢は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。人の無礼に怒るのは、自分の反映へ怒っているようなものといえよう。
自然の中には、僕の愛に値しないものは何もない。一人の人間も、一本の木も。
「これをやりにおれは生まれてきた」と思えることだけを考えていればよい。
人の目なんか気にしないで、思うとおりに暮らしていればいいのさ。
いずれどっかへいくだろうさ…。それともどこへもいかないのかもしれないぜ…。どっちでもいいさ。このままで、とてもたのしいじゃないか。
疑いながら、ためしに右へ曲るのも、信じて断乎として右へ曲るのも、その運命は同じ事です。どっちにしたって引き返すことは出来ないんだ。
人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか。
平均的な父親ってのはいろいろなはげましを必要とするものさ
私が結婚するのはたったひとつの理由からよ。それは、愛。
人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。
人間は、苦しめられ打ち負かされる時、なにかを学ぶチャンスを得る。
人生には損得を超越した一面、自分がこれと決めたものには命を賭けてでも、それに邁進するという一面があってもよいのではないだろうか。
私は、失敗するかもしれないけれども、やってみようというような事は決してしません。絶対に成功するのだということを、確信してやるのです。何が何でもやるのだ、という意気込みでやるのです。
高く登ろうと思うなら、自分の脚を使うことだ。高い所へは、他人によって運ばれてはならない。人の背中や頭に乗ってはならない。
「できるわけがない」で大幅に改悪される。「つくれやしない」でまた大幅に改悪。こうしてわざわざ敗北を引き寄せる。
自分自身を信じてみるだけでいい。きっと、生きる道が見えてくる。
あなたにできること、あるいはできると夢見ていることがあれば、今すぐ始めなさい。向こう見ずは天才であり、力であり、魔法です。
今年で30歳になる。キリストが伝道を始めた歳だ。もはや子供っぽいことは終わり。無駄なことも、恋も、結婚も