私たちは常に命の短さを嘆きながら、あたかも命がいつまでも続くかのように振舞う。
未来を気づかう心は悲惨なり。
富を最も必要とせぬ者が、それを最も享受す。
成功のおかげで、いくつかの罪は一見公正に見えてくる。
治そうと思う者は、もう半ば治っている。
男は自己の感じているほどの年であり、女は見かけほどの年なり。
毎日をまったく違う人生と見なすべきだ。
「幸福を必要としないこと、それがおまえたちの幸福だ」と、神は言った。
誰かに起こりうることは、誰にでも起こりうることである。
過去を忘れ、現在をおろそかにし、未来を恐れる者の生涯は短く、悩み事が多い。
神に見られているかのように人間の中で暮らし、人間が聞いているかのように神に話しかけよ。
もし君が自分のために生きようと望むならば、他人のために生きねばなりません。
富に耐えることができないというのは弱い精神の兆候である。
汝を称讃する人々の価値に重さをおくべきなり。悪から称讃されざることこそまことの価値なり。
恩知らずの欲望ほど大きな悪を持っている欲望はありません。
いかに長く生きたかではなく、いかに良く生きたかが問題である。
生きることの最大の障害は、期待を持つということである。それは明日に依存して、今日を失うことである。
およそ惨めなものは、将来のことを不安に思って、不幸にならない前に不幸になっている心です。
もっとも厄介な奴隷状態とは、自分自身の奴隷であることだ。
もし君が人に愛されようと思うなら、まず君が人を愛さなければならない。
万人を信じるのと万人を信じないのとは、間違いの大きさにおいて同じである。
不幸な人の共通の過ちは、わが身に幸せが訪れることを、決して信じたがらないことである。
どちらがその人物についての正しい判断であるかは、目でなく心で見分ける。
言論が堕落したところでは精神も堕落している。
険しい道こそが、偉大なる高さに結びつくのである。
難しいからやろうとしないのではない。やろうとしないから、難しくなるのだ。
どんなに豊かな土壌でも、耕さなければ実りをもたらさない。人の心も同じである。
人生は短いのではない。我々がそれを短くしているのだ。
運は我々から富を奪うことはできても、勇気を奪うことはできない。
すべての芸術は自然の模倣である。
困難は精神を鍛え、労働は身体を鍛える。
貧しい者とは、ほとんど何も持っていない人間のことではなく、もっと多くを渇望する人間のことを言う。
生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるであろうが、生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである。
粗暴は弱さの一つのしるしである。
我々は眼の中に他人の欠点を、背中に自分の欠点を持つ。
運命は、志あるものを導き、志なきものをひきずってゆく。
どの港へ向かうのかを知らぬ者にとっては、いかなる風も順風たり得ない。
肉体のために生きるのではなく、肉体なしには生きられないように振る舞うべきである。
希望を持たぬ者は、絶望することもない。
まだ感じやすきうちに心を訓練するは容易なり。
すべての残忍性は臆病から生まれる。
中傷を受けない賢人よりも、中傷を受けても動じない賢人のほうが格が上だ。
最もよく踏みならされ、また最も人通りの多い道ほど、どれもみな多くの人を迷わせるものである。
あなたが生きていればいるほど、どうやって生きていくのか、学び続けるんだよ。
人生はつねに幸福でない、善き人生のみが幸福なのだ。
恩恵を施した者は黙っているのがよい。恩恵を受けた者は語るのがよい。
過ちをおかすことが悪いのではない。悪いのはその過ちのために、ひまわりのごとく、どんな暗い所にいても絶えず太陽の方へ伸びてゆく、柔軟にして強靭な心を失うことだ。
人は教えることによって、もっともよく学ぶ。
人がいるところには必ず、親切を施す機会がある。
君が長生きするかどうかは、運命にかかっている。だが、充実して生きるかどうかは、君の魂にかかっている。
ぐずぐずしている間に、人生は一気に過ぎ去っていく。
いかなる事も、友に相談すべし。とりわけ、自分自身に関する事は。自己愛は判断を狂わすゆえ、友の助言は有益である。
頑固者は、打ち砕くことはできるが、服従させることはできない。
大切なことは、何に耐えたかということではなく、いかに耐えたかということである。