いやしくても大財産があれば、必ず大不幸がある。ひとりの富者があるためには、五百名の貧者がなくてはならない。
プロレタリアートとは、自分の生活の維持する費用を、ただ自分の労働力を得ることによってのみ得ていて、あらゆる種類の資本の利潤からは得ていない社会階級である。 その幸福と不幸、生と死、その存在全体は、労働の需要、景気の変動、どう決まるかわからない競争の結果などにかかっている。
プロレタリアにおける最大の不幸は何か?それは生存は保証されず、生産手段をもたない裸の存在であり、その代わり売るものは唯一つ、“労働力”であり、生きるも死ぬも、これにすべてがかかっている。
労働の疎外は、第一に、労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないで、かえって否定され、幸福と感ぜずに不幸と感じ、自由な肉体的および精神的エネルギーがまったく発展せず、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は荒廃するということである。だから労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働の中では自己の外にあると感ずる。彼の労働は自発的なものではなく、強いられたもの、強制労働である。したがって、労働は欲求を満足させるものではなく、労働以外のところで欲求を満足させるための手段にすぎない。
私たちは思いを高めることによってのみ向上し、困難を克服し、目的を達成することができます。それを拒めば、弱くてみじめで、不幸なままでいるほかありません。
どんなときでも、より劇的でありたい。つまらないと感じることは最大の不幸だと思うから。
人ひとりが幸せになるか、不幸になるかは、そばにいる人のちょっとした優しい言葉だったりすると思う。
自分を信頼した者がそこにいるとしたら、不幸にさせたくないよね。
幸福は、和める心には一挙にして分かる。かたくなな心は、不幸でいらいらして、せめてめまぐるしいものや数々のものに心を紛らす。そして益々不幸だ。
不幸な顔をした人たちは、「成功しなかったら、人生はおしまい」と決め込んでいるのかもしれないね。成功しなくてもいいんです。全身全霊で打込めることを探しなさい。
幸福は自己満足 不幸は被害妄想
自分自身の、そして他の人々の人生に意味を見だせない人は、単に不幸であるばかりでなく生きるのに向いていないと言える。
ある偶然の出来事を維持しようとする不幸な試みを結婚という。
子供時代が不幸だからといって、一生不幸でいてはいけない。
不幸によって磨かれる人もいれば、駄目になってしまう人もいる。
いくら知恵があっても、これを使う勇気がなければ何の役にも立たないように、いくら信仰が厚くても、希望がなければ何の価値もない。希望はいつまでも人とともにあって、悪と不幸を克服するからである。
グチや悪口は不幸を呼ぶ呪文です。けっして口にしてはなりません。
同じ場所で同じ仕事をし、名声も財産も同じような二人の人間がいても、一人は幸福で一人は不幸だ。理由は精神の持ちようが違うからである。
気のふさいだ馬を見たことがあるか?しょげかえった小鳥を見たことがあるか?馬や小鳥が不幸にならないのは、仲間に「いいかっこう」を見せようとしないからだ。
不幸になりたければ、自分が幸福か不幸か悩め。
旅をしない音楽家は不幸だ。
人間はまじめに生きている限り、必ず不幸や苦しみが降りかかってくるものである。しかし、それを自分の運命として受け止め、辛抱強く我慢し、さらに積極的に力強くその運命と戦えば、いつかは必ず勝利するものである。
神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう。
君の愛は、私を最も幸せな男にするのと同時に最も不幸な男にもする。
優れた人間は、どんなに不幸で苦しい境遇でも、黙って耐え忍ぶ。
世界でもっとも不幸な人間というのは、せっかくの時間を何に使ったらよいかわからなくて、いたずらに一日を迎え一日を送る人間の事を指すのでしょう。
この世の中で恐怖心ほど人の心を傷つけるものはありません。わたしよりはるかに不幸な方々を助けることにより、わたしは自分の恐怖と闘い、ついにそれを克服したのです。
常に悲しみを要求する人生に対して、僕らにできる最上のことは、小さな不幸を滑稽だと思い、また大きな悲しみをも笑い飛ばすことだ。
死を前にしたとき、みじめな気持ちで人生を振り返らなくてはならないとしたら、いやな出来事や逃したチャンス、やり残したことばかりを思い出すとしたら、それはとても不幸なことだと思うの。
起こったことをあるがままに受け入れよ。それが不幸な結果を克服する第一歩である。
私たちはこの世に存在している不幸の重荷を、みんなで一緒に担わなければならない。
各人はその考え次第で幸福にもなり、不幸にもなる。他人が見てそう思う人ではなく、自分でそう思う人が幸福なのである。
不幸は大半が人生に対する誤った解釈のしるしである。
運命は我らを幸福にも不幸にもしない。ただその種子を我らに提供するだけである。
働くことができない、人間として使命を果たすことができない、これが結局、人間の唯一の不幸なのである。
賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう。
不幸な人間は、いつも自分が不幸であるということを自慢しているものです。
およそ惨めなものは、将来のことを不安に思って、不幸にならない前に不幸になっている心です。
不幸な人の共通の過ちは、わが身に幸せが訪れることを、決して信じたがらないことである。
道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。
自分の持っているイメージと違うとすぐ矯正しようとする。こんな上司のもとにいる部下は不幸。
なにか一つのことに脇目も振らずに打ち込める時期を持てる人は幸せかもしれない。今の若い人達はのめりこめるものを見失っている。不幸な時代だとは思うけども、時代のせいにするのはどうかな。
人生はロマン。自分は不幸だと悩むのではなく、試練を与えられた物語の主人公だと思えば、人生をエンジョイできる。
不幸な家庭に育った人は強く生きる能力を持つ人。あながち不幸ではない。
子供を不幸にする一番確実な方法は、いつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。
他人の不幸に同情するのは、自分に無関係だと思えない時だけである。
子供は苦労を和らげる。しかし不幸を一段とつらいものにする。子供は人生の煩いを増す。しかし、死の思いを和らげる。
誰がなんといおうが、本人が「有り難い、幸福だ」と思っていたら、不幸はありえない。だから幸福は、心が生み出すきわめて主観的なものなのだ。
もし、知識だけを磨いて人間が幸せになれるなら、学問を一生懸命勉強した人はみんな幸福になれそうなもんじゃないですか。そして、学問を勉強しない人はみんな不幸であるべきはずだが、そうじゃないでしょう。
我々が皆自分の不幸を持ち寄って並べ、それを平等に分けようとしたら、ほとんどの人が今自分が受けている不幸の方がいいと言って立ち去るであろう。
富によって得た不幸は、不幸の中でも最悪のものである。
人生はチャンスと変化に富んでいる。そして最も栄えているときに、人は大きな不幸に見舞われる。
不幸は、本当の友人でない者を明らかにする。
この悲しい世界では、不幸は皆に訪れる。その場合、ひどい苦しみを伴うことがある。完全に癒すことができるのは、時をおいて他にはない。
人類の不幸の大半は、ものごとの価値を計り間違えることによってもたらされる。
資本主義の欠点は、幸運を不平等に分配してしまうことだ。社会主義の長所は、不幸を平等に分配することだ。
賭博は貪欲の子供であり、不正の兄弟であり、不幸の父である。
われわれは幸福も不幸も大げさに考えすぎている。自分で考えているほど幸福でもないし、かといって決して不幸でもない。
不幸は我々に真の友人を教えうるという長所がある。
結局のところ、最悪の不幸は決して起こらない。たいていの場合、不幸を予期するから悲惨な目にあうのだ。
愛されないということは不運であり、愛さないということは不幸である。
人間は永遠の不正に対して闘うために正義を肯定すべきであり、世界の不幸に対して抗議するために幸福を創造すべきである。
人間には不幸か、貧乏か、病気が必要だ。でないと人間はすぐに思いあがる。
不幸なときにこそ、人は道徳的になる。
敵が不幸な時は、私にとっては敵ではない。
どの青年もおしなべて情熱との戦いを繰り返しながら成長して行くのに、君は不幸だ。早くから美しいものを見すぎ、美味しいものを食べすぎているということは、こんな不幸はない。喜びを喜びとして感じる感受性が薄れていくということは、青年として気の毒なことだ。
いつまでも続く不幸というものはない。じっと我慢するか、勇気を出して追い払うかのいずれかである。
真理!眼をしっかり開いて、生命の強烈な息吹を全身の毛穴から吸い込み、物事をあるがままに見、不幸をまともに見つめ、そして笑うのである!
私が人生を諦めて、自分一個の幸不幸などはどうでもよいと悟って以来、少なくとも人生は、私にやさしくしてくれるようになった。
この世の中には色々の不幸がある。しかしその不幸からよきものを生み出そうとし、また生み出し得るものは賢い人である。
まかぬ種子は生えぬと言うが、我等は不幸の種子をまかず、幸福の種子をまくように注意すべきである。
不幸からよきものを生み出そうとし、又生み出しえる者は賢い人である。与えられたる運命をもっともよく生かすということは、人間にとって大事である。
自分で自分を支配することが出来ない人は、不幸になりやすい。
真の英雄とは、人生の不幸を乗り越えていく者のことである。
幸福とは、その人間の希望と才能にかなった仕事のある状態をさす。不幸とは、働くエネルギーがありながら、無為な状態にあることをさす。
人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。ただそれだけの理由なのだ。
人間というものは、不幸の方だけを並べ立てて幸福の方は数えようとしないものなんだ。
人生は苦痛であり恐怖である。だから人間は不幸なのだ。だが今では人間は人生を愛している。それは苦痛と恐怖を愛するからだ。
人間には、幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。
幸福な人間が良い気分でいられるのは、不幸な人々が自己の重荷を黙々と担ってくれているからに過ぎない。
いいかね。もし我々が下の方の階段の助けを借りずに、一足飛びに最上段へ躍り上がる方法を見つけだそうものなら、その長い前階段は我々にとって、一切の意味を失うことになる。こういう不幸な考え方には、何の進歩も、学問も、芸術も、思想そのものすらありえないということを知らねばならないのだよ。
すべての不幸は未来への踏み台にすぎない。
友を探し求める者は不幸である。忠実な友はただ彼自身のみなのだから。
人間は不幸のどん底につき落とされ、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。
人間の生活の苦しみは、愛の表現の困難に尽きるといってよいと思う。この表現のつたなさが、人間の不幸の源泉なのではあるまいか。
幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である。
他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ。
不幸は幸福のうえに立ち、幸福は不幸のうえに横たわる。
誰かと一緒に不幸になるよりも、一人きりで不幸になるほうがいいわ。
私たちは皆、互いに助け合いたいと思っている。人間とはそういうものだ。相手の不幸ではなく、お互いの幸福によって生きたいのだ。
世界の不幸や誤解の四分の三は、敵の懐に入り、彼らの立場を理解したら消え去るであろう。
人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。
恋を得たことのない人は不幸である。それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である。
人は、不幸のときは一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思います。
この世の不幸は、良い習慣をあきらめるほうが、悪い習慣をあきらめるよりも、ずっと簡単だということにある。
恐れをもつことは不幸だ。それゆえに、勇気をもつことが幸せなのではなく、恐れをもたないことが幸せなのだ。
人生のほとんどすべての不幸は、自分に関することがらについて、あやまった考え方をするところから生じる。できごとを健全に判断することは、幸福への大きな第一歩である。
少しでも気取った男は不幸である。たとえ恋しているときでも、ありったけの才知を傾けても、自分の有利な点の四分の三を失う。一瞬でもつい気取ってしまうと一分後にはしらけた瞬間がやってくる。
自分に欠けているものを過大に考えると不幸になる。
私は不幸にも知っている。時には嘘によるほかは語られぬ真実もあることを。