天才の特徴は、凡人がひいたレールに自分の思想をのせないことだ。
恋が芽生えるには、ごく少量の希望があれば十分である。
人生のほとんどすべての不幸は、自分に関することがらについて、あやまった考え方をするところから生じる。できごとを健全に判断することは、幸福への大きな第一歩である。
人はあらゆるものを孤独の中で獲得することができるが、性格は別である。
恋は他の感情とは違って、未来の期待よりも、過ぎ去った過去の記憶ほうがつねにまさるのである。
恋の喜びはいつも、不安の大きさに比例する。
美は、幸福の約束にすぎない。
人生はあまりにも短く、そして退屈し浪費した時間は決して取り戻すことができないのだ。
歴史家に必要な第一の要件は、発明するという能力を持たないことだ。
女に愛されていることが確かであると、男は、彼女が他の女より美しいか、美しくないかを検討する。女心がわからないと、顔の事など考える暇がない。
上品ぶった態度は貪欲の一種であり、最悪の貪欲である。
愛は私の人生で最も大切なものであり、唯一のものであろう。
私は自分の尊敬するものしかおそれない。
絶世の美人は二日目にはそれほど人を驚かさない。彼女の値打ちは誰にでもわかり、装飾品になっているのだから、彼女たちの恋人のリストには馬鹿のほうが多く数えられるに違いない。王族とか百万長者とか。
君が僕を愛していなくてもかまわない。とにかく僕は、僕ら二人のために愛することはできる。
恋には四つの種類がある。情熱の恋、趣味の恋、肉体の恋、虚栄の恋。
愛情には一つの法則しかない。それは愛する人を幸福にすることだ。
男は、俗っぽい女が与え得るすべてのものを受け取るより、いつの日か愛する女に気に入られるという、きわめて当てにならない機会を夢見るほうを好む。
一目で惚れられるためには、男の顔の中に、何かしら、相手の女性に尊敬させるものと同時に、憐憫の情を感じさせる何かがなくてはならないのである。
広く好かれれば好かれるほど、深く好かれないものだ。
少しでも気取った男は不幸である。たとえ恋しているときでも、ありったけの才知を傾けても、自分の有利な点の四分の三を失う。一瞬でもつい気取ってしまうと一分後にはしらけた瞬間がやってくる。
偉人は鷲のようなものだ。高く上れば上るほど、人からは見えなくなる。孤独は偉大になるための代償なのだ。
友情には恋愛と同様に勘違いがある。
恋が生まれるまでは、美貌が看板として必要である。
いっさいのよい議論は人を立腹させる。
恋愛は大臣の椅子のように、簡単に手に入れることのできない一つの幸せな未来である。
廃れた流行ほどゾッとするものはない。
神のできる唯一の弁解は、神が存在しないということだけだ。
幸福がこの上なく大きい場合には微笑と涙が生まれる。
いとしい女にはあんな長所、こんな長所があると君が信じて疑わないのは、ひとえに想像力のなせるわざである。
高慢な女は自尊心から嫉妬を移す。
われわれが経験しうる、いつまで経っても変わらぬ最も長続きのする喜びは、自己に満足するという喜びだ。
われわれの本来の感情は利己的だ。
恋愛が与えうる最大の幸福は、愛する人の手をはじめて握ることである。
急な山を登りつめて頂上に腰をおろす旅人は、ほっと一息いれるのが限りない喜びであるが、もし、永久にそうやって休息していろと無理強いされたら、彼は幸福であるだろうか。
人間がこの世に存在するのは、金持ちになるためではなく、幸福になるためだ。
情熱というものは、人生におけるひとつの偶然の出来事にすぎない。この偶然は優れた人間の心にしか起こらないものだ。
すべての人を楽しませようとすればするほど、心から楽しませることができなくなる。
恋というものはなんと恐ろしい情熱だろうか。それなのに世間の嘘つきどもは、恋をあたかも幸福の源泉のように言っている。
涙は極端な微笑である。
君のいない天国よりも、君のいる地獄を選ぶ。
女性はつねにあらゆる感情に余念なく警戒する。
恋とは甘い花のようなものである。それをつむには恐ろしい断崖の端まで行く勇気が無ければならない。
幸福は伝染するものだ。もし幸福になろうと思うなら、幸福な人々の中で生きたまえ。
恋敵に関しては、中庸を得るということはない。
羊飼いはいつも羊たちに、お前たちの利害と自分の利害とは同一だ、と説得しようとする。
僕の魂は、もし燃え上がらなければ苦しむ業火なのです。
確固たる性格を持つには、自分に対する他人の影響を経験したことがなければならない。
精神のいちばん美しい特権の一つは、老いて尊敬されることである。
羞恥心の効用は、それが恋愛の母であるということである。
ロシア人はフランス流を模倣するが、つねに50年遅れている。
恋はうぬぼれと希望の闘争だ。
金を分かち合えば愛を増し、金を与えれば愛を殺す。
人は独創的でなければ大物にはなれないが、大物でなくても独創的にはなりうる。
小説というものは大道に沿うてもち歩かれる鏡のようなものだ。諸君の眼に青空を反映することもあれば、また道の水溜りの泥濘を反映することもあろう。
愛する人と共に過ごした数時間、数日もしくは数年を経験しない人は、幸福とはいかなるものであるかを知らない。
情熱を持って恋したことのない人間には、人生の半分、それも美しいほうの半分が隠れされている。
憎悪にも結晶作用がある。恨みをはらせる希望が出てくると、あらためて憎みはじめるのだ。
幸せを言葉で語ると幸せを減らしてしまう。
恋においては、われわれの虚栄心はあまりにたやすい勝利を軽蔑するものであり、どの種類の恋でも、男は向うから差し出されたものの価値を誇大視するものではない。
軽蔑というのは、馬鹿丁寧な言葉のうちに、いつも巧みに隠されている。
恋においては所有することは無意味であり、享楽することがすべてだ。
旅の最大の悦びは、おそらく事物の変遷に対する驚嘆の念であろう。
恋して幸せなひとには、熱烈さがある。
自分に欠けているものを過大に考えると不幸になる。
人は、恋をしてはじめて、すべての子供らしさから脱皮する。
文学において政治とは、コンサートの最中に発射された拳銃のように耳障りで忌まわしいものであるが、しかし無視することもできないものである。
恋は熱病のようなのもである。それは意思とは関係なく生まれ、そして滅びる。
最も賢明なことは、自分を自分の打ち明け相手にすることである。
私が結晶作用というのは、つぎつぎに起るあらゆる現象から、愛するものの新しい美点を発見する精神作用のことである。
恋をすると、すぐ身近に、いくら願っても手の届かない、とてつもなく大きな幸福があるような気がする。しかもその幸福は、ただ一つの言葉、一つの微笑みにのみ左右される。
彼らが良識と呼んでいるものは、老化現象の始まりに過ぎない。