もし私が犬よりも猫が好きだというのなら、それは警察猫というものがいないからである。
神童。それは多くの場合、非常に想像力の豊かな親を持った子供のことである。
我々は自分の内に天使をかくまっている。我々はこの天使の保護者でなくてはならない。
本物の涙は、悲しい一ページからではなく、見事に置かれた言葉の奇跡から引き出される。
いかなる革命も、3日目から堕落が始まる。
愛することは、愛されること。
運命は人がその糸をもつれさせるのを好まない。
パリでは誰もが役者になりたがり、見物人に満足するものはいない。
芸術に従って芸術を作ってはならぬ。
生き方の基準は、正しいか正しくないかではなく、美しいか否かである。
青年は決して安全な株を買ってはならない。
スタイルとは、複雑なことを表現するための簡単な方法だ。
神童などという言葉は、家族のつくったものだ。
手には、物を掴む手と放す手がある。
詩人は賞賛など求めてはいない。信じてもらいたいだけだ。
人生は、水平方向に落ちていくことである。
美はざっと見てもわからない。
大胆のコツは、度が過ぎない程度にどこまで遠くへ行けるかを知ることである。
芸術は醜いものを生み出すが、しばしばそれは時とともに美しくなる。一方、流行は美しいものを生み出すが、それは常に時とともに醜くなる。
詩人はつねに真実を語る嘘つきである。
家族同様に暮らしていくうちに、猫はしだいに家庭の中心的存在になってくる。この愛らしくも不思議な動物は生き生きとした静けさをかもしだし、王のような気品を漂わせながら悠然とわれわれのあいだを歩きまわり、自分にとっておもしろそうなもの、楽しそうなものを見つけたときのみ足をとめる。
ゆっくり急げ。美よりも速く走れ。
著者の死後、彼の日記を読むことは、彼からの長い手紙を受け取るようなものだ。
文学の偉大なる傑作とは、使えない辞書のようなものである。
運を信じるしかない。そうでなければ、気にくわない人たちの成功をどう説明すればいいのだ。
詩人にとって最大の悲劇は、誤解によって賞嘆されることだ。
とどのつまり歴史とは何か?歴史とは伝説と化した事実であり、伝説とは歴史と化したウソである。
芸術家は自分の芸術について語ることはできない。植物が園芸を語れないように。
批評家は常に比較する。比較できないもの、つまり「類まれなもの」はそこからすり抜ける。
私の誕生の日から、死がその歩みを始めている。急ぐこともなく、死は私に向かって歩いている。
ユーモアを失わないように戦うのだ。ユーモアの欠如は愚の骨頂だ。
先に見出し、後に捜し求めよ。
鉛筆や紙と同等の費用で映画が創れたときにのみ、映画は芸術作品となるだろう。
侮辱に悪影響を受けるのは、侮辱に感染しているのだ。
未来は誰のものでもない。先駆者というものはおらず、時間に遅れた者しかいないのだ。
芸術は、意識と無意識の融合である。
富は一つの才能であり、貧しさも同様に一つの才能である。金持ちになった貧乏人は、贅沢な貧しさをひけらかすであろう。
芸術作品が時代に先駆けてあらわれるとき、時代は芸術作品の後ろでもたもたしている。
詩はなくてはならないものだ。ただそれが何のためにあるのかを知ってさえいればなあ。
詩人は未来を回想する。
私が猫好きなのは、家で過ごす方が好きだからだ。そして次第に、猫が家の一部に思えてくる。
私は今、生きようと努めている。というよりも、どのように生きるかを、私の中の死に教えようとしている。
悪魔は悪しか行なうことができないゆえに純粋である。