庭師が庭を耕し、雑草を引き抜き、草花の種をまくように、私たちも自分の心の庭を手入れし、誤った無益で不純な思いを取り払い、正しく、有益で純粋な思いの草花を植え、それを育みつづけなければなりません。
あなたがたえず、身勝手で卑しい考えを思いめぐらせていると、あなた自身もやがては身勝手で卑しい人間になってしまうということです。あなたがいつも清く利他的な考えを抱くよう心がけていれば、あなたは確実に、清らかで利他的な人間になります。
自ら犠牲になることをいとわない人は、心に決めた目標を必ず達成します。
成功や失敗は、私たちがめぐらせる思いの直接的な結果です。
自分にとって唯一かつ本当の敵は、身勝手で幻である「自我(エゴ)」です。
私たちは思いを高めることによってのみ向上し、困難を克服し、目的を達成することができます。それを拒めば、弱くてみじめで、不幸なままでいるほかありません。
心に抱くビジョンは、美しいか否か、あるいはその両方であるかにも関係なく、いつか実現します。
心が邪悪な思いに満ちているとき、私たちに痛みがもたらされる。雄牛につきまとう荷車のように。純粋な思いを持ち続ければ、喜びが後からきっとついてくる。自らに寄り添う影のように。
多くの場合、思いと船は、人生の海原を「漂流」しているだけなのです。
苦悩はつねに、何らかの誤った思いの結果です。
自分にも、人にも、足らないことばかりを見つけて、愚痴や嘆きに変えることが、乱れる心と 眠れない状況を創るのです。
人間のすべての営みには努力があり、努力の大きさによって結果の大小が決定します。そこには、いかなる偶然も介在しません。
自分の他に、 敵は存在しません。
ビジョンとは、いつかそうなるという約束です。理想とは、いつか実現するという予言です。
私たちは、境遇を改善しようとは思いますが、自らを改善しようとは、なかなか思わないものです。境遇を改善できない理由は、まさにここにあります。
何かをしようとする意志は、自分にはできるという認識から生まれます。疑いや恐れは、その認識にとって最大の敵であり、疑いや恐れを抱き、放置していると、絶えず行く手を阻まれることになります。
他人を制することに 躍起になればなるほど、わたしたちはわずらわしい感情に 縛られ続けます。
目的を心に抱いたら、その達成にいたる一筋の道を心に描き、視野をそらしてはいけません。
くよくよと後悔することが 悲しみを呼びます。憎しみが 実りのない明日を創ります。
卑しい思いを持たないのに邪悪な道に落ち、苦悩するなどということは決して起こりません。同様に、崇高な志を磨き続けることなく、真の徳や幸福を極めることもありません。
物事を達成するためには、たとえそれが世俗的な目標のためであっても、奴隷じみた動物的な欲望から抜け出さなければなりません。
不道徳な思いを抱けば、身体はすぐに病み衰えます。楽しく、美しい思いを抱けば、身体は若さと美しさにつつまれます。
私たちは、境遇を直接選ぶことはできませんが、思いを選ぶことはできます。そのようにして、間接的に、しかし確実に境遇を形づくることができるのです。
心に抱くビジョンは、美しいか否か、あるいはその両方であるかにも関係なく、いつか実現します。
境遇が苦悩をもたらすとき、それは私たち自身の心において調和がとれていないことを示しているのです。境遇が喜びをもたらすとき、それは私たち自身の心において調和がとれているということなのです。
苦しみと喜びの両方から、学ぶことができるのです。
根気よく、正しい方向の 努力を続ける人にとって、自由で安らぎに満ちた幸せの扉に行き着けない理由など、どこにもありません。
私たちは思っている通りの存在になります。思いつづければ、その通りの自分でありつづけるのです。
疑いや恐れによって達成できるものなど何もありません。それらはつねに 失敗をもたらします。疑いや恐れが入り込むと、目的、活力、行動力、そしてあらゆる強い思いが露消してしまいます。
人格とは、私たちが巡らせる思いの、完全なる総和なのです。
清らかな心からは、清らかな人生と清らかな身体が作られ、けがれた心からは、けがれた人生とけがれた身体が作られます。
植物は種から芽生えます。種がなければ芽生えることは出来ません。私たちの行いもまた、目には見えない種から生まれます。この思いという種がなければ、行いが生まれてくることはありません。
私たちは、思いの主人であり、自分自身のつくり手であり、境遇の設計者なのです。
気高く神のような人格は、神から贈られるものでも、偶然手にするものでもありません。それは、まっすぐな思いを持ち続けることによる自然の結果なのです。同じように、品位に欠けた野獣のような人格も、卑しい思いを 心に抱き続けた結果なのです。
目的を持たないことの弊害は、きわめて大きいのです。破局や破滅に陥りたくないのなら、そのような漂流をつづけていてはいけません。
無知よりも暗い 闇はないのです。
悪意、皮肉、疑い、ねたみに満ちた思いを抱き続けることは、自らをつくり上げた牢獄に自らを閉じ込めているようなものです。つねに好意を抱き、あらゆる人と楽しく接し、他人の長所を見出そうとすること、そのような無欲な思いこそ、天国への入り口なのです。
思いは、私たちの行い、身体、体験の源泉なのです。その源泉を清らかにすれば、すべてのものが清らかになります。
正しく生きてきた人にとって、老いとは、沈みゆく太陽のように、穏やかでやわらかく美しいものです。
人間のすべての営みには努力があり、努力の大きさによって結果の大小が決定します。 そこには、いかなる偶然も介在しません。
あなたは、あなたが夢見た人間になるでしょう。
あなたの障害になるもの、あなたを縛るものは、あなたの思いと考えです。