愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人を結びつける力である。
愛は、人と人を結びつける力なのです。
人生において人がなすべき主な仕事とは、自分自身を誕生させることである。可能性としての自分を実現することである。人の努力のもっとも重要な成果とは、その人自身のパーソナリティである。
過去の危険は、人間が奴隷になることだった。未来の危険は、人間がロボットになるかもしれないことだ。
人間が完全に自然から離れることはない。あくまで人間は自然の一部だ。
愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。
他人を「信じる」ことのもうひとつの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。
現代人は、ものごとを急いでしないと、何か、つまり、時間を損したような気持ちになる。しかし、時間つぶし以外には、浮かせた時間をどう使っていいのかは分からないのである。
権力欲は強さでなく弱さに根ざしている。
たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親はごく少数しかいない。蜜を与えるためには、母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならない。
愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。
勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。
自分自身を信じている者だけが、他人にたいして誠実になれる。
もし、私の持っているものが私を意味するなら、また、私が持っているものを失ってしまったら、私は誰なんだろう?
二人の人間は、自分の交換価値の限界を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。
愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるというパラドックスが起きる。
教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、精神分析医は患者によって癒される。
一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。
誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束はなんの根拠もないことになる。
愛は「自由の子」なのであり、決して「支配の子」ではない。
何かをもらうために与えるのではありません。与える事自体がこの世で一番の喜びなのです。
神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である。
愛は、人間の実存という問題への、唯一の健全で満足のいく答えである。
一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。
人生の意味はひとつしかない。生きるという行為… それ自体なのです。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
未熟な愛は言う、「愛してるよ、君が必要だから」と。成熟した愛は言う、「君が必要だよ、愛してるから」と。
人は愛する者のために働く生き物なのです。
現代では、集中力を身につけることは規律よりもはるかにむずかしい。
集中力を身につけるためには、くだらない会話をできるだけ避けることが大事だ… くだらない会話を避けることに劣らず重要なのが、悪い仲間を避けるということである。
人間が自分で意味を与えないかぎり、人生には意味がない。
自分の役に立たないものを愛する時にはじめて、愛は開花する。
たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。
利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。