不道徳な思いを抱けば、身体はすぐに病み衰えます。楽しく、美しい思いを抱けば、身体は若さと美しさにつつまれます。
人間にとって最も大切な努力は、自分の行動の中に道徳を追求していくことだ。
芸術において不道徳は存在しない。芸術はつねに神聖である。
力のある者は決して騒がない。力のある者ほど無言のまま働きかける。真の道徳は言葉の終わったところから始まる。
人間は自分に起こった問題を環境のせいにする癖を止めねばならぬ。そして自分の意志(信念と道徳に基づく自分自身の取るべき道)を訓練することを再び学ぶべきだ。
人間が本当に道徳的であるということは、自分が助力することのできるあらゆる生命を助け、どんな生命をも傷つけまいと熱望する、その熱望に従う場合だけである。
道徳を云々するものにとっては、退屈こそひとつの重要な問題である。というのは、人類の罪悪の少なくとも半分は、退屈を恐れるあまりおかされるものであるから。
宗教はたくさんあるが、道徳はひとつのみである。
真の雄弁は雄弁を軽蔑し、真の道徳は道徳を軽蔑する。哲学を軽蔑することこそ、真に哲学することである。
礼節とは、道徳的にまた知的に貧弱な互いの性質を互いに無視し合いながら、非難しまいという暗黙のうちの協定である。
法律をやぶったことについてのつぐないは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義をやぶれば、誰に向かってつぐないえるか、つぐないようがないではありませぬか。
酒は口を軽快にする。だが、酒はさらに心を打ち明けさせる。こうして酒はひとつの道徳的性質、つまり心の率直さを運ぶ物質である。
何度も繰り返し長い時間をかけて考えれば考えるほど、いつも新たな、いよいよ強い感嘆と畏敬とで心をみたすものが二つある。私の上なる星空と私の内なる道徳法則とである。
1.私は何をすることができるか。2.私は何を為すべきであるか。3.私は何を希望してよいか。4.人間とは何であるか。第一の問いに答えるのは形而上学であり、第二の問いには道徳、第三の問いには宗教、第四の問いには人間論が答える。結局これらすべては人間論に含ませてよいであろう。
法律においては、他人の権利を侵害する時には罰せられる。道徳においては、侵害しようと考えるだけで罪である。
あらゆる宗教は道徳をその前提とする。
いかなる時もあなたは法律の中に、あなたの法的権利の中に、あなたの道徳的権利の中にいて、正義に従い、そして信じるところのために死ぬ。しかし、一人では死なないで欲しい。死のお返しをさせてくれ。これが平等の意味するところだ。
私の母は、今までに見た女性の中で一番美しい人でした。私が今あるのは、すべて母のおかげです。生涯の成功のすべては母から与えられた道徳教育、知的教育、身体教育のおかげなのです。
黙って服従することは、しばしば安易な道ではあるが、決して道徳的な道ではないのだ。それは臆病者の道なのだ。
女が愛するとき、女はすべてを許す。それが道徳に背くことでも。女が愛さないとき、女は何も許すことができない。それが正しい行いであっても。
不幸なときにこそ、人は道徳的になる。
旧道徳は危険を回避することを命じた。だが新道徳は、危険をおかさないものは、何ものをも得ない。
フランス大革命は「歓喜」から発したもので、決して道徳的義務から発したものではなかった。
商売をする上で重要なのは、競争しながらでも道徳を守るということだ。
真の富とは道徳に基づくものでなければ決して永くは続かない。
道徳に加勢する者は一時の勝利者には違いないが、永久の敗北者だ。自然に従う者は一時の敗北者だが、永久の勝利者だ。
偉大な芸術は、道徳的要素なしには存在しえない。
現代の道徳は、現代の基準を受け入れる点にある。いやしくも教養のある人間にとって、現代の基準を受け入れるということは、愚劣きわまる不道徳のひとつの形式だと思う。
道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与えたる損害は完全なる良心の麻痺である。
強者は道徳を蹂躙するであろう。弱者はまた道徳に愛撫されるであろう。道徳の迫害を受けるものは、常に強弱の中間者である。
道徳は常に古着である。