自分が幸せになったときにたくさんの方々が幸せになって、そしてその幸せが還元されてまた自分に戻ってきて。自分がこうやって笑うことによって、みんなが笑ってくれる。そんな平和な世界じゃないですけれども、そんなことはすごく感じました。
心に抱くビジョンは、美しいか否か、あるいはその両方であるかにも関係なく、いつか実現します。
自分を信頼した者がそこにいるとしたら、不幸にさせたくないよね。
今夜は、良き事を学んだなあ。夢中の人物は輝いている。
この仕事にかぎらず、「いつまでも新人のような気持ちでいる」そう思うことが大切なような気がします。新人は出会うもの全て新鮮で先輩を尊敬し、目標に向かって突き進んでいけばいい。実に理想的精神状態です。
古今東西の「あの世」のことを調べていて、気づいたことがあります。それは、地獄の様子は場所とか民族とかによって様々異なっていて、それぞれ迫力と現実感に満ちているのに対し、天国の方は世界中ほとんど同じだということです。実に単純なんだ――天国には美しい川が流れ、薄物をまとった美女がいて、美味しそうな食べ物が溢れている。環境が悪くなったのに目をつぶれば、まさに長い不況で暗く沈んだいまの日本こそ天国じゃないですか。それなのに現代人たちは、悲壮な顔をしてあくせく働いています。
息子は妻をめとるまでは息子である。しかし娘は一生涯娘である。
私は聖書の中にただ、十字架に付けられたキリストのみを理解する。
生産性の本質を測る真の基準は量ではなくて、質である。
作ったものが計画通りに機能しないからといって、それが無駄とは限らない。
本当の教育は知性と美しさと善良さを組み合わせたものです。そしてこのうち一番大切なものは善良さです。
食欲がないのに食べても健康に悪いように、やる気がないのに勉強しても記憶力が損なわれ、記憶したことは保存されない。
偉業は一時的な衝動でなされるものではなく、小さなことの積み重ねによって成し遂げられるのだ。
同じ花崗岩のかたまりも、弱い人にとっては、道の障害物になる。しかし、強い人にとっては、道に置かれた踏み台となる。
恋愛に年齢はない。それはいつでも生まれる。
人は宗教的確信に促されて行うときほど、完全に、また喜んで悪事を働くことはない。
私は対局が終わったら、その日のうちに勝因、敗因の結論を出す。
平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること。
今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。
仮初にも人に振舞候は、料理第一の事なり。何にても、其の主の勝手に入らずば、悪しき料理など出して、差当り虫気などあらば、気遣い千万ならん。
制度を作るのは共和国の統領だが、のちには、その制度が共和国の統領をつくる。
何が本当に自分の利益であるか、ということを知ることは容易ではない。
嫉妬は、傷つけられた恋人の地獄である。
何かをやりたいと思えば思うほど、それを仕事とは呼びたくない。
私は起業家という言葉をいつも拒否してきました。「会社を始めよう、何の会社にしようか」では決して成功はないと思います。
自分の好きなものは必ずえらい人物になって、きらいなひとはきっと落ちぶれるものと信じている。
行動を伴わない想像力は、何の意味も持たない。
人間の英知を信用しすぎるのは賢明ではない。強者も弱くなるかもしれないし賢者も間違うかもしれない、と心に留めておくことは健康的である。
人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。
知識人は問題を解決し、天才は問題を未然に防ぐ。