私は、こう見えてもバカですょ。
「だいじょうぶだぁ」では1回の放送分で10くらいのコントをやってたけど、僕はこの人はこんなタイプ、この人はこんなタイプと、きちんとキャラクターの性格を決めていた。そうじゃないと、みんな一緒に見えてしまう。
20代のころは「早く歳を取りたいな」という思いはありました。いい歳した大人がバカをやるからカッコいい、いい笑いになるんでね。50歳はまだまだで60歳を過ぎたいま頃からがそろそろかなと。と言いつつ、実際にそうなると、実感がわかないんですよ。酒量もあまり減らないし。やってることも、若いころと何一つ変わってないですからね。
最初から全力でいかない奴は、その時点で先がない。
「全員集合」のころから、僕はゲストの歌手とコントでからむことが多かった。ゲストでコントが好きな人を選ぶ方法のひとつは、新人のアイドルが出演すると、その子の前でまず屁をしてみる。それで腹を抱えて笑うような子はだいたいオッケー。「えーっ」て嫌な顔する子はダメ。よく笑うってことは、お笑いが大好きだってことのあかしだ。
らしく見せるコツは何か。僕の場合はその人を徹底的に好きになることだ。
多少辛いとか何とかあってもね、舞台でウケちゃったときの気持ちよさ、あの感覚はやめられないね。
モテる秘訣は、子供の心に大人の財布。
ゲストがからむコントは、最初にシチュエーションを考えるのではなく、まず誰がゲストかを考え、この人ならこんなキャラクターということでコントをつくっていった。
本当に笑いをとるのはリアクションだ。
みんなの笑顔が見たいから。
オレは偉大なるマンネリ=スタンダード・ナンバーだと考える。
ムダなことでもなんでも知ってた方がいい。知らないと損をすることはあっても、知ってて損することはないから。
番組中で屁をすると、下品だとか低俗だとかずいぶん非難されたけど、僕はオナラは万国共通のギャグだと思ってる。
古今東西、いつの時代も、自分が楽しいと思わない仕事からよい結果は生まれない。
「お金は利を得るために使うもの」という意識をいつも持っている。
よくマンネリと言われたけど、僕は笑いにはマンネリは絶対に必要だと思う。お客さんにすれば、「たぶんこうするよ、ほらやった」と自分も一緒になって喜ぶ笑いと、「意表を突かれた、そう来たか」とびっくりする笑いの2種類あると思う。全部意表を突かれてしまうと、お客さんも見ていて疲れてしまうだろう。
後ろを振り返る余裕もなく、時間に追われるまま、ただただ無我夢中で走っていたという感覚です。いまそれを「やれ」と言われても、絶対できないでしょうね。
「飽きられず、忘れられず」、これがキャラクター・ブランドを長期にわたって維持していくための戦略。
何よりお笑いには音楽性がすごく大事。お笑いは間とタイミングで決まるものなんだけど、そのセンスはまさに音楽的センスであり、リズム感なんだよね。コントの会話のリズムも、それを少し狂わすからおもしろいのに、もともとのリズムがわかっていないと、狂わすこともできないわけだから。
テレビでも、あまりに普通の人が普通のことをやりすぎている。そんなのはおもしろくない。変わった人、珍しい人、平凡な人、少し狂気のようなものを感じる人。それを見たいから世間の人はテレビや舞台を見る。芸人はもともと変わってるんだ。僕たちはそれでいいんだ。
おいしいところをゲストに。それは僕のいつもの考えだ。
やっぱり子供たちにバカだと思われているのはいい。お笑いをやってて、子供にまで「あれは芝居してるんだよ」なんて言われたら、みっともない。バカだと思われてるってことは、そう「見える」ってことだから、演じてる者にとっては一番うれしい誉め言葉だ。
ただ脱げばいいというのではない。それじゃあ単に下品になって、つまらない。だから、裸にならなきゃいけない理由をはっきりさせるように心がけている。
自分が30代、40代につくってきたコント。いまの自分にとっては宝物ですよ。
いちばん頭のオレが当たり前のことをキチンとやることで、現場にいい意味での緊張感が生まれてくる。
テレビの仕事は、僕たちもスタッフも、手を抜こうと思えばいくらだって抜ける。でも1回手を抜いたら、つまらなくなってしまうのは目に見えている。だから、やっている間はとことんまでやるしかない。
僕は共演者に対しては、あまり演出とかはしない。本人に任せる。
人になにかを伝えたいならウソをついちゃいけない。
何もしてない奴が「じゃあ、お前ちょっとやってみな」って言われることはあり得ない。ふだんから何かをやり続けているから、誰かの目にとまって声をかけられるんだ。
僕は芝居を「演じている」と見られるのが一番嫌いだ。オーバーな演技やクサい芝居をしていると「そんな奴はいねえだろ」となってしまう。「いるいる、こんな奴が」と思ってもらいたい。「らしく見える」のが一番大事だ。
今思うと、あのころの僕はただ無我夢中で、なんでも一生懸命やろうとして力が入り過ぎていたのだ。後になってわかったことだけど、本当はその逆で、楽しく遊んでるように見せるのがお客さんを笑わせるコツだ。「こいつら本当に楽しそうにやってるな」って思うから、お客さんは笑う。
グループの笑いというのは、全員の仲がよくないとうまくいかない。
自分自身の絶対条件がクリア出来れば、その他の項目には目をつぶる。人間の欲望や要求にはきりがない。「三割満足で十分」でいけば、世の中腹の立つことも少なくなるだろうし、けっこう丸く収まると思う。
「見たいけど、たまにしかやっていない」という、放送回数を腹八分目ぐらいの満腹感に抑えてきたこと。それがロングセラーになった要因だ。
誰もが思いつきそうなことを、人より鼻の差ぐらい先を見越して、現実化すればいいんだ。「鼻の差ぐらい」がポイント。それ以上先でも、それ以下でもダメ。
お笑いには「三つオチ」といって、1、2、3でおとすという定石がある。コントでもなぜか3人目を笑わせなきゃいけない。
僕はコントを考える時、自分が見たり聞いたりしたものから発想する。
半ズボンとかのままでコントをするのは、金をもらって人前で見せる芸じゃないだろうという気持ちになる。本人たちは、流行だからカッコイイと思ってるのかもしれないけど若い奴らにはそう見えても、大人の目には単にだらしない格好でしかない。誰が見てもわかるお笑いじゃないと思う。
非常識なことをするためには、まず常識を知らなきゃいけないんだよ。
オレはいつでも「個性は変人、常識は凡人」でいたいと思っている。
笑いというのは、切羽詰まった時に生まれるものだ。
なんでもそうだけど、ずっと続けているとうまくなる。うまくなると、またおもしろくなってきて、さらに一生懸命やろうという気になってくる。そうやって、一人前になっていくんだと思う。
たとえば、舞台であるセリフを間違える。お客さんは自分が観た回だけ間違えたと思う。でも、実は毎回わざと間違えているわけです。アドリブっぽく見せるのもひとつの芸なんです。
そんな根性で入ってないですもん、この道。
中学生のころからお笑いが好きで、もう一生の仕事だと思っていました。途中で辞めようと思ったこと?ないですね。
とにかく面白いコントを作りたい。そう思わせた最大の要因は、やっぱり育ってきた家のなかの暗さにあったんじゃないかな。親父は小学校の教頭をやっていたんですけど、ガチガチの堅物でね。普段はニコッともしない。しかも講道館柔道の5段なんですよ。講道館柔道というのは実践的なケンカ柔道で、実質的には5段以上はいないと言われてて、ホント、こわくてね。下手に口答えでもしようものなら、すぐにバーンと足払いですから。そんな家に、笑いなんかあるわけないじゃないですか。そんな雰囲気のなか、夕飯のとき、お笑い番組をつけていると、それを見て親父がクスッと笑う。その瞬間、家のなかがパッと明るくなるのが嬉しくてね。「ああ、笑いの力ってすごいんだな」って。
人を笑わせるのって、結局、間とタイミングだ。
マンネリで大いに結構。ほかの人はマンネリまでいかないじゃないですか。定番があるのは全然恥ずかしいことじゃない。ドリフも僕のバカ殿も変なおじさんも、必死でネタ作って、とことん何年もやり続けてきたわけだから。みんなマンネリの域まで達してみろって。
これからお笑いをめざそうとするのなら、なんでもそうだと思うけど、自分が好きでこの道だと決めた以上、あとはどん欲にやるしかない。この世界は、待ってても誰も来ないから。
えらい人のせき払いが「だっふんだぁ」って聞こえたのが、すごく耳に残ってた。
音楽をプラスすると笑いが強くなる。
お笑いみたいなものでも、常識を知らないと本当のツボというものがわからない。常識は基本線で、お笑いはその常識という基本線をひっくり返すところで、コントとして成り立っている。だから、笑えるワケよ。お笑いに限らず、常識をバカにする奴に、常識を超えたことは絶対に出来ない。
ベンチひとつで何ができるか、といったシンプルな笑いの基本に返るのが大事。
今の若い芸人の番組なんかだと、最初のメインがなくて、遊びの部分ばかり多くてゲームになっている。本当は何をしたいのかが、どうもよくわからない。そもそも芯になる、やりたいものがないのか、15分とか20分の長くてしっかりとしたコントをつくるのが大変だから逃げているのか。そのあたりが、僕には不満なところだ。でも、そのつらいところをしっかりつくっておくと、ほかのコーナーが生きてくる。
自分の一生なんだから、自分が好きなことを思い切りやればいいと思う。売れるか売れないか、先のことは誰にもわからないけど、自分が納得いくまでやれば、それでいいんじゃないか。
仕事を楽しくするためには、男にしても女にしても好きな人が近くにいた方がいい。だから僕は自分が好きな人を、まずゲストに呼んだり、レギュラーに加えたりする。
マネして出来なきゃ、それは才能がない証拠。
いろいんな人たちを遊びの場で見てきた。思うのは、人生は不公平だってこと。若いときからずっと恵まれている人もいる。急上昇して急降下する人もいる。人生の後半にピークを迎える人もいる。ずっと恵まれない人もいる。人生というゲームの勝ち負けに一定の法則がないことは、これを見てもあきらかだろう。ただし、ひとつ言えることがある。ずっと恵まれてみえる人はみな必ず努力していることだ。例外なくね。
分かる人には、演者が馬鹿で無い事くらいわかる。むしろ利口ぶったり、文化人ぶったりするようになったら、芸人としておしまい。
僕は、女の子の出演者に対しては、早く打ちとけようと思って、スタジオでもすぐに胸やお尻をさわったりする。まわりに誰がいようが関係ないから、「なんだ、あいつは女のケツばっかさわりやがって」と思われてたかもしれないけど、現場がいつもワーキャー言ってるような雰囲気じゃないと、やってる方もなかなかコントを楽しめない。それと、いきなりケツをさわった時にどんな反応をするかというリアクションが気になる。
コントは、1人きりでやる落語とはちょっと違う。ドリフみたいにグループでいつも一緒にいる関係ならいいけど、僕と田代と桑野なんかの場合、毎日一緒にいるわけじゃない。せいぜい週に2日。それで当時は一緒にコントをやり始めたばかりだとなると、やっぱり一緒に飲みに行ったりしてワーワーやって、あうんの呼吸でコントをできるようにならないとダメだ。
仕事に限らず何でもそうだけど、「おれ、頑張りました」ってところが見えてしまうようではまずい。頑張ったとか、努力したということを、ことさら強調する奴がいるけど、それって手品で、すぐさまタネあかしをしてしまうのと同じじゃないのか。いとも簡単にやっているようで、実はその裏で血のにじむような努力と完璧な準備があるからこそ、金を取れるモノになるわけなんだから。
一番嫌いなのはおもしろいコントをダーッと並べられることだ。お笑いは並べる順番というか計算が大事だから、そこがわからない人に構成されると、逆に本当につまらないものになっちゃう。
一番気合いが入っていたのは、「全員集合」が終わって、加藤茶さんと2人の「ごきげんテレビ」がはじまったころですかね。メンバーが2人になって、「やっぱり5人のときのほうが面白いや」って言われるわけにはいかなかったですから、とにかく力が入りました。寝ても覚めても「何かないか、何かないか」とコントのネタばっかり考えていました。
オレなんか変なおじさんしかなくて、これでずっとやってるよ。
夕方近くになっても宙ぶらりんという人は、能力や才能がないというより、自分自身を解放できず、気持ちが萎えてしまって、うまく出来ないでいることが多いと思うんだ。これまでつき合ってきた自分じゃうまくいかないなら、こころの中で「変なおじさん」にヘンシ~ンって掛け声をかけてみたらいい。臆することなく思いきって、やれる。
俺ね、コントをつくっていくのに、「このへんでいいかな」という妥協ができないんです。そのかわり私生活はだらしないけど、こと笑い、番組作りとなると譲れない。とことん考えに考え抜いて、実際、胃に穴が空いちゃったこともありますから。
客席の千何百人が一斉にドカーンって笑ってるのを舞台の上で見るのって、とてつもない快感なんです。パワーをあげてると同時にもらってるというか。ちょっとした快感じゃなくて、ものすごい快感。そのために、裏で苦労して考えて考えてより面白いことを追求することができるんだと思います。
みんなと同じだったら、一番楽だろう。不安もなくなる。でも、その代わり個性もないってことになる。あいつは変わってる、と言われるのは光栄なことだ。1回きりしかない人生なんだから、自分の好きなように、自分に正直に生きようよ。
気取らないこと。とにかく飾らない。自分を大きく見せようとする段階で人はうそをつくし、それはすぐに見破られるものですよ。
テレビの世界はとにかく数をたくさんつくれないと役に立たない。
なんの仕事にしてもそうだと思うけど、本当に嫌だったら辞めればいい。でも、辞めないってことは、自分が好きで選んだ道だということだし、やり遂げる責任も負うことになる。だから、少々嫌なことやつらいことがあっても、それは自分が我慢すればいいことじゃないかな。